チャールズ・チャップリンがエドナ・パーヴィアンス主演で監督した作品です
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、チャールズ・チャップリン監督の『巴里の女性』です。サイレント映画界で放浪紳士を演じて人気絶頂だったチャールズ・チャップリンが、自ら主演せず監督だけに専念したのが本作で、主演のエドナ・パーヴィアンスを女優として一人立ちさせるために製作されたといわれています。興行的に失敗して以降、50年以上再上映されず幻の作品となっていましたが、1976年にチャップリン自ら作曲した音楽が加えられた再編集版が公開されました。チャップリンは1977年のクリスマスの日にこの世を去りましたので、その音楽はチャップリンが生前に残した最後の仕事になったのでした。
【ご覧になる前に】チャップリンは駅の荷物を運ぶ役でカメオ出演しています
パリから90km離れた田舎町の夜、マリーは婚約者のジャンと会うことを継父から禁じられ、二階の窓から家の外に出ます。マリーはジャンと一緒にパリに移り住もうと約束していたのでした。家から閉め出されたマリーをジャンは自宅に連れ帰りますが、ジャンの父親の反対にあい、二人は駆け落ちを決意します。駅でジャンが来るのを待つマリーですが、出発の時間になってもジャンは駅に来ません。ジャンに電話したマリーは、父親が危篤で行かれなくなったと聞き、ひとりパリに旅立つことにしたのでしたが…。
イギリスのコメディ劇団で活躍していたチャールズ・チャップリンは、ハリウッドに渡るとドタバタ喜劇に次々に出演し人気喜劇俳優になりました。小心者だけど心優しい放浪紳士というキャラクターを確立したチャップリンは、映画会社の意向に左右されない作品を作るために自ら映画製作・配給会社を立ち上げます。共同設立者はメアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクス、D・W・グリフィスで、俳優・監督が4人集まって設立されたことからユナイテッド・アーティスツという社名が掲げられました。
ファースト・ナショナル社と6本の映画を製作する契約を結んでいたチャップリンは、『キッド』『のらくら』などを完成させて、ファースト・ナショナル社から離れ、やっとユナイテッドアーティスツ社で活動できるようになります。自らプロデューサーとなって自分の思い通りの作品が作れるようになったチャップリンが、最初に取り組んだのが自分は出演せず、エドナ・パーヴィアンスを主演に起用して本格的な女優として一人立ちさせるための悲恋物語でした。それがこの『巴里の女性』で、サイレント映画としては珍しく登場人物の心理描写を追及した作品として、映画評論家たちからは多くの賞賛を集める一方で、一般の観客たちからはチャップリンが出演しないということで見放され、興行的には失敗に終わってしまいました。
エドナ・パーヴィアンスはチャップリンより六歳年下で、チャップリンが1915年に主演した『アルコール夜通し転宅』に相手役に起用され映画デビューを果たします。チャップリンはエドナのことを喜劇映画向きではないと感じていましたが、チャップリンと恋愛関係になったエドナは、『犬の生活』の酒場の女役や『キッド』の捨て子の母親役など、30本以上のチャップリン映画に出演を続けます。エドナ・パーヴィアンスは本作で主演を務めたのちは、2本の映画に出演して女優を引退。パイロットの男性と結婚し死別後にひとり暮らしを続ける間、チャップリンはエドナに対して週150ドル出演料を支払い続けたんだそうです。
チャップリンは本作でワンショットだけカメオ出演していて、駅で荷物を運ぶ荷役夫として数秒間だけ画面に映ります。本作以降、チャップリンは自ら主演する喜劇映画に戻って1925年に『チャップリンの黄金狂時代』を発表し、偉大な作品を世に送り出すことになっていきます。ちなみに1924年に日本で公開された『巴里の女性』は、その年から始まった第一回キネマ旬報ベストテンで「芸術的に最も優れた映画」部門でベストワンに選出されています。
【ご覧になった後で】恋敵を演じるアドルフ・マンジューの方が魅力的でした
いかがでしたか?1976年に再編集された伴奏つきバージョンで、映像もきれいにレストアされていましたので、今から100年以上前の大昔の作品なのに何のストレスもなく見ることができました。淀川長治先生が本作のことを大傑作と評価していて、ラジオ番組で本作のストーリーを講談するように話していたのがいつまでも忘れられません。当時はまだ再編集される前だったので、淀川長治氏は完全に1924年に日本で公開されたときに見た記憶だけを頼りに語っていたはずですが、まるで今日再見したばかりのように鮮やかに映画そのものをラジオ上で再現していました。ビデオが登場して現在ではインターネット配信でいつでもどこでもすぐに映画の細部まで再確認できる時代になりましたので、もう淀川長治先生のような映画の語り部は出てこないでしょうね。
それはともかくサイレント映画の時代に本作のような登場人物の心情に迫ったドラマが作られていたことは、当時としては驚くべき偉業だったと思われます。スラップスティックで笑わせるのはそこそこの映画ならできますが、見る人を泣かせたり考えさせたりする映画は、サイレントではかなり難しかったことでしょう。それを人物設定と映像と数行の字幕だけで表現してしまうチャップリンは、次作の『黄金狂時代』で喜劇をドラマティックに見せるというステップに入っていくわけなので、本作がそのスプリングボードになったのかもしれませんね。
とは言っても現代的な目で見ると、基本的にキャメラはドタバタ喜劇を撮るのと同じように舞台にいる登場人物たちを客席から眺めるような横からの視点でしか撮りません。画角がフルショットからミディアムに変わる程度で、パンやティルトもありませんし、もちろん移動撮影なども使われていません。なので見ていても、結局あまりメリハリのない舞台劇を見せられているようで、映像的な興味をそそられるような作品ではありませんでした。去っていく馬車をとらえたラストショットがアイリスアウトして暗転するのは、いかにもチャップリンらしい終わり方でしたけど。
エドナ・パーヴィアンスのために作られたというわりには、エドナ自身にそんなに観客を惹きつける何かがあるわけではなく、現在的に見るとそんなに美人でもないので、主演女優として本作を引っ張っているかといえばどこまでの存在感はありません。しかし恋敵の役回りとなるピエールを演じたアドルフ・マンジューはなんともいえない魅力があって、紳士だけど色男で、しかもいやらしさを感じさせない洗練された表情や所作にいつのまにか目が行ってしまうくらいでした。田舎から出てきた画家のジャンを演じるカール・ミラーがいかにもサイレント映画っぽいメイクアップと大袈裟な演技なので、余計にアドルフ・マンジューのほうに肩入れしたくなるようなキャラクターとしての格の違いが感じられました。
アドルフ・マンジューはフランス人とアイルランド人の血を引くアメリカ人で、ボードヴィルの世界から映画界に入った人。本作で大きく注目を浴びた後は、1930年のジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『モロッコ』でゲーリー・クーパー、マレーネ・ディートリッヒとともに三角関係を演じて好評を博すことになります。(A100524)
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